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世界一危険な浜岡原発と廃炉に向けて語る

静岡県原水協講演会
2012年4月7日(土)

「世界一危険な浜岡原発と廃炉に向けて語る」

講師弁護士大橋昭夫(浜岡原発永久停止駿遠弁護団主任弁護士)

第1 はじめに

1、何故、訴訟を提起したのか。

2011年3月11日に起きた東日本大震災は、日本列島における未曾有の被害を発生させている。その中でも特筆すべきは東京電力の福島第一原子力発電所の地震及び津波による事故である。福島第一原発では核燃料が溶け出し、原子炉圧力容器およびこの圧力容器を覆う格納容器から抜け出し、さらに水蒸気爆発を伴って、生物に有害な放射性物質が大量に地球上へ放出された。すでに放出された放射性物質は、数万テラベクレル以上と言われ、現時点でも放射性物質の放出はいまだに続いている。これは、人類が経験した最も深刻な放射性物質流出事故である。
現在進行している放射性物質飛散による汚染は、直ちに目に見える被害を生じさせなくとも、いずれ生物の遺伝子レベルの破壊をもたらす重大な結果を引き起こすことになる。大量の放射性物質の地球上への放出は、人類が過去に生み出した最大かつ最悪の環境破壊の一つであり、人間を含む生きとし生けるすべての生物への生命侵害であって、遺伝子への侵襲は地球における40億年の生命の進化の破壊でもある。
私たちには、将来世代の人類や、そして、この世にある全ての生物のため、二度とこのような悲惨な事態を生じさせない責任を負っているのであって、そのためには、浜岡原発を始め日本にあるすべての原発を廃炉にするほかない。
国際司法裁判所の元裁判官であり、国際反核法律家協会のウィーラマントリー会長は、原子力発電所の存続拡散は、将来世代への犯罪であり、人道法、国際法、環境法等のあらゆる原則に違反するものだとして、「原子炉の便益を一方的に宣伝する情報の流れは逆転されねばならない。」「時間は尽きようとしている。どうか今行動して欲しい。」と述べている。
ウィーラマントリー会長の発言によるまでもなく、私たちの世代は、今、意見を述べることのできない、将来、生まれてくる世代のためにも破局的な損害という帰結が生ずる可能性を放置することのないよう行動すべき義務がある。
そうしなければ、将来世代から不作為による犯罪だとして指弾されることは必至である。
このたび、そのような見地から多くの心ある人々が原告として浜岡原発の永久停止と廃炉を求めて訴訟を提起したものである。

2、原発の安全性をどのように考えるべきか。

従来の原発の安全性についての考え方は、国や電力会社に甘く、原発の具体的危険性の立証責任を住民側に課したため、結果的に国や電力会社を免罪し、福島原発事故につながったものである。
従来、原子炉の安全性の程度は、社会的に許容される程度の安全性を備えていることを意味する「相対的安全性」で足りるとされていたが、現在では、そのような考え方は採りえない。
原子炉の設置・運転によって、過酷事故を発生させない、それらの過酷事故によって環境や周辺住民の生命・身体・財産に被害を及ぼす確率がほぼないという「絶対的安全性」に近似する考え方により、電力会社側に主張立証を求めることが現代的な訴訟法理であり、そのことが今まさに必要不可欠である。
中央防災会議が2011年9月28日に取りまとめた「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会報告」は、「あらゆる可能性を考慮した最大クラスの巨大な地震・津波を検討」し、「発生頻度は極めて低いものの、甚大な被害をもたらす最大クラスの津波」を想定すべきであるとしており、又、原発の耐震安全性を検討する国の作業部会の主査と委員を2011年7月末日に辞任した纐纈一起東京大学教授も、毎日新聞のインタビューにおいて、「立地を問わず、過去最大の揺れと津波を同じ重みをもって安全性を考慮するよう改めるべき」であり、「過去最大というのは、原発の敷地で、これまでに記録したものではなく、日本、あるいは世界で観測された最大の記録を視野に入れることが重要である。」と述べている。
地震対策、津波対策については、多くの学者が、人間が認識できる過去において生じた最大の地震、最大の津波、いわゆる「既往最大」の考え方に立脚して対策をとるべきだと主張している。
そして、最大の地震、最大の津波を前提にした安全対策をとらなければ、原発の安全性は確保されたとはいえないとしている。
前記報告や学者の見解に待つまでもなく、住民側に課せられるとする具体的危険性の主張立証の程度は、最早、具体的危険性というよりも、抽象的危険性に近似するものであり、それでほぼ足りるものと考えなければならない。
今回の福島第一原発の炉心溶融事故は、用意されていた冷却系、格納容器などの「安全装置」も、その多くは機能を失い、人為的対応にもことごとく失敗し、設計上対応できる事故をはるかに超える過酷事故へと至った。
環境に放出された放射性物質は広範囲に広がり、今も周辺住民ばかりか、日本列島に居住する多くの人々に苦痛を与えている。
従来、電力会社や国は、原発が安全だとする1つの論拠に原発事故の発生する確率論をあげていた。
その1つとしてラスムッセン報告が有名である。
アメリカ原子力委員会は、マサチューセッツ工科大学のノーマン・ラスムッセン教授を主査としたグループに確率論的手法を用いた原子炉の安全性評価を命じ、その報告をもとに、同委員会は、1975年、「原子炉安全性研究」を公表した。
それによると、過酷事故発生の確率は、極めて小さく、「原発事故で人が死亡する確率は、航空機墜落によって地上で人が死ぬ確率よりも大幅に低い。」と結論づけられ、以後、過酷事故問題は蓋をされてしまったという。
しかしながら、この確率論にはアメリカ国内でも批判が多く、地震動などで多くの部品が一斉に破損する「共通原因故障」等も考慮されておらず、およそ科学的とはいえなかった。
しかし、この過酷事故発生の確率は極めて低いとするラスムッセン報告は、世界に安全神話を広める役割を果たし、わが国にも大きな影響を与えた。
今までのわが国における原発訴訟においても、国や電力会社の主張する安全神話に裁判所が従がい、およそ過酷事故は発生しないとの考え方のもとに主張立証責任が組み立てられ、その結果、住民側に過重な主張立証責任が課されることになったものである。
原発の安全性については、原発がもともと危険なものであるとの認識から出発すべきものであり、従来の安全性についての考え方は克服されなければならない。

第2 原発自体の危険性

1、原子炉の運転による放射性物質の発生と蓄積

燃料の核分裂反応によって核分裂生成物(ウラン235の核分裂生成物には、コバルト60、ストロンチウム89、ストロンチウム90、ヨウ素131、セシウム137、バリウム140、ラジウム226、ウラン238、プルトニウム239)が発生し、燃料被覆管の内部に含まれる。
さらに、冷却水の中には冷却水が接する機器や配管の内面等の腐食に伴って生ずる不純物(鉄やマンガン)等が核分裂反応に伴って発生する中性子等によって放射化された放射化生成物が含まれる。
このように、原発が平常に運転されている時にも大気中や海水中の一般環境に放射性物質が拡散され放射能被害の危険を及ぼしている。
一般環境への放射性物質の放出を抑制するためには、人体や地球環境に致命的な危害を及ぼす核分裂生成物を原子炉内に閉じ込める必要があるが、この完全な放出防止技術は、未だ完成していない。
この結果、本件原子力発電所の周辺に居住する住民は、本件原子炉の平常運転時にも放射線被曝をすることになり、さらには一旦事故が発生すれば致命的な放射線被曝をすることになる。
核分裂生成物の放射線に被曝すると、人体を構成している細胞の中の蛋白質や核酸(遺伝子の本体と考えられている高分子化合物のDNA)などの重要な高分子化合物が傷つけられる。
勿論、損傷したDNAなどを修復する酵素もあるので、傷ついたからといって、それがすべて悪い影響に結びつくわけではないが、誤って修復されたり、あるいは、修復する能力を上回って被曝すると、将来、がんになる恐れが大である。
又、全身に大量に放射線を浴びて傷ついた細胞ができると、急性障害が起こり、リンパ球が減ったり、脱毛したり、生殖障害を起こしたり、最終的には死亡という重大な結果を招く。
このように、原告ら住民は、放射線被曝により、将来の発がんという晩発性障害、最悪の場合には、上記の急性障害という致命的被害を被る恐れがある。
このように、原発は周辺に居住する住民に対して、平常運転時にも、事故時にも、放射線被曝による障害の発生を不可避にしているもので、さらには、放射性廃棄物の安全確実な最終処理方法が未だみつかっていないことを考えると、原発は人間にとって本質的に危険な施設であり、人間と共存できないものである。

第3 浜岡は世界一危険な原発である。

1、浜岡原発の立地的危険性

日本列島は、ほぼ全域で大地震の活動期に入りつつあるという見解が、わが国の地震学者の一致した認識である。
最近の90年間をみても世界中でマグニチュード7以上の地震が約900回観測されているが、その約10%が日本で発生している。
日本の地震の発生の仕方には特徴があり、活動期(地震が集中する時期)と、静穏期(地震がほとんどない時期)を繰り返しており、現在は上記のように活動期と言われ、東海大地震も文部科学省の地震調査研究推進本部の想定では、2008年1月1日を算定基準として、30年以内に88%の確率で起こると計算されている。
駿河湾内には、西日本を乗せているユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが潜り込む「駿河トラフ」がある。
この「駿河トラフ」は駿河湾から、さらに南西方向に伸びて、紀伊半島、四国南方沖につながる「南海トラフ」の一部ともなっている。
「トラフ」とは海底に走る巨大な溝を言い、プレート境界を指す。
地球を覆っている十数枚の大陸プレートの内、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4枚のプレートがぶつかりあう場所に日本列島が存在する。
海底を形成しているフィリピン海プレートが、年間5cmから6cmの割合でユーラシアプレートの方へ移動し、その下に潜り込み、その結果、ユーラシアプレートの先端部分が引きずり込まれ、歪みが蓄積することになる。
その歪みが限界に達したとき、ユーラシアプレートが思い切り、はねあがり、その時プレート境界型の大地震が発生し、同時に大津波も発生すると言われている。しかも、この地震は、陸上での直下型地震の可能性もあるという。これが浜岡原発の原子炉を容易に破壊するマグニチュード8.0ないし8.4と予測される東海大地震である。
そして、恐しいことに、東海大地震の想定震源域の真只中、すなわち、プレート境界そのものの上に建設されているのが浜岡原発なのである。

2、浜岡原発付近では過去にも大地震があった。

浜岡地域では、中世、近世に巨大な地震があったことが歴史学者の古文書の研究、及び史料地震学の研究者の研究によって明らかにされている。
駿河トラフ、南海トラフで発生したプレート境界型のこれらの巨大地震は、いずれも東海地震、東南海地震、南海地震の3つの地震が連動したものであることも明らかになっている。
そして、これらの地震は100年から150年の間隔で発生していることも、上記の研究で明らかになっている。

⑴永長の地震

1096年12月11日(ユリウス暦、嘉保3年11月24日)、駿河国から伊勢国の海域にかけて、マグニチュード8.0から8.5と推定される「永長の地震」が発生した。
この地震は、嘉保という元号の時に発生したものであるので、本来、「嘉保地震」と言った方が正確であるが、嘉保3年12月17日に地震により改元され、永長元年となったので、通常、「永長の地震」と呼ばれている。
「理科年表」は、「後二条師通記」と「中右記」に基づき「東海沖の巨大地震と見られる。」と記載している。
さらに、「理科年表」(国立天文台編平成23年机上版)は、「東大寺の巨鐘落ちる。京都の諸寺に被害があった。近江の勢多橋落ちる。津波が伊勢、駿河を襲い、駿河では社寺、民家の流出400余、余震が多かった。」と記載している。

⑵明応の地震

1498年9月11日(ユリウス暦、明応7年8月25日)、マグニチュード8.2から8.4の地震が東海地方を襲った。
この地震を「明応の地震」という。
歴史学者が信頼できる史料とする近衛政家の日記である「後法興院記」は、「伊勢、参河、駿河、伊豆、大浪打ち寄せ、海辺二、三十町の民家ことごとく溺水、数千人命を没す。その外、牛馬の類その数を知れずと云々」と記している。
上記の「理科年表」は、「明応地震は南海トラフ沿いの巨大地震で、紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で震動が大きかったものの、震害は、それほどでもなかった。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢の大湊で家屋の流出1000戸、溺死は5000人であった。
伊勢、志摩での溺死者1万人、静岡県志太郡での流死者2万6000人などである。」と記載している。
「理科年表」は、現在の焼津市と島田市の一部を含む志太郡の流死者を2万6000人としているが、地元の史料である「駿河記」にも「小川村大地震動、海水大いに涌き、溺死する者およそ2万6千余人、林叟の旧地たちまち変して巨海となる。」と記載されている。
又、「円通松堂禅師語録(「曹洞宗全書」語録一)は「明応7年8月25日、大地震が起き、地は裂け、15尺の大波が襲い、山は崩れた。最も憐れむべきは津波にさらわれた海辺に宿泊し湊の市にいた遠方の商人、近隣の買い物客、そして芸能人である。」と記載している。
この湊は、研究者の研究によると浅羽湊(袋井市、合併前の浅羽町)か掛塚湊(磐田市、合併前の竜洋町)とされ、いずれにしても、佐倉海岸からごく近い場所の地震による津波の被害が記されている。
さらに、この明応地震では、浜名湖の西に存在した橋本という港湾都市が被害を受けたという。
上記のことからみると、明応地震では、駿河湾から佐倉海岸を含む遠州灘沿岸一体に大きな被害が発生したことは確実である。

⑶慶長の地震

1605年2月3日(グレゴリオ暦、慶長9年12月16日)マグニチュード7.9の地震が東海、南海、西海地方を襲った。
この地震を「慶長の地震」というが、「理科年表」には、この時の地震、津波の被害として、八丈島、遠江橋本、紀伊広村、阿波宍喰、土佐甲ノ浦などの被害者数が記載され、このうち、遠江橋本については、「浜名湖近くの橋本で100戸中80戸流された。」と記載されている。
湖西市の長谷元屋敷遺跡からは、慶長地震による津波の土層が発見され、この地方に津波被害があったことは考古学上からも明らかにされている。

⑷宝永の地震

1707年10月28日(グレゴリオ暦、宝永4年10月4日)、伊豆下田から駿河湾、遠州灘、尾張、伊勢湾、摂津の広範囲でマグニチュード8.6の巨大地震が発生した。
この地震を「宝永の地震」という。
この地震は、上記のように広範囲に亘り、大被害を発生させたが、尾張藩士朝日重章の日記によって、尾張の被害だけではなく、遠州灘の白須賀、新居の被害も明らかになっている。
その日記には、「白須賀は残らず潰れた。その内の半分は波にさらわれた。人馬の大部分は死んだ。新居は番所とともに波にさらわれ、人馬の大半は死んだ。船は204艘のうち5艘しか残らなかった。」と記載されている。
この被害のため、新居は関所とともに現在の地に移り、白須賀の住民も海辺から坂の上に移住したという。
佐倉海岸にごく近い所に横須賀湊(現在の掛川市、合併前の大須賀町横須賀)があったが、宝永の地震により土地が隆起し、港としての機能が果たせなくなり、干潟の平地になってしまったという。(現在はその干潟もなく、一面、田になっている。)
横須賀は町自体が他地区に移転することはなかったが、「横須賀惣庄屋覚帳」によると、この地震により539軒が全半壊したという。

⑸安政東海地震

「宝永の地震」から約150年後の1854年12月23日(グレゴリオ暦、嘉永7年11月4日)、関東から近畿にかけてマグニチュード8.4の巨大地震が起こり、この地震を「安政東海地震」という。
翌12月24日にも中部地域から九州にかけてマグニチュード8.4の巨大地震が起こり、この地震を「安政南海地震」という。
この安政東海地震は、東北地方南部から中国、四国地方までの広域で震度4以上の地震動をもたらしたというが、とりわけ、駿河湾から浜名湖までの遠州灘沿岸部にかけての地震動が激しく、震度6以上、多くの場所で7に達したという。
三島は震度7、沼津は震度6、蒲原は震度6から7、江尻(清水)は震度7、駿府(静岡)は震度6から7、焼津は震度6、相良は震度7、浜岡は震度6、掛川、横須賀は震度6から7、袋井は震度7、浜松は震度5から7の激震に襲われ、三島、蒲原、江尻(清水)、掛川、袋井などの家屋は、ほとんど全潰し、火災も発生し、沼津、駿府(静岡)、相良、横須賀などの城下町や宿場も大きな被害を被ったという。
これらの地域では、あちこちで地割れが生じ、大量の泥水や青砂が吹き出すという液状化現象がみられたという。
この液状化現象とは、地下水を含んだゆるい砂地盤が、強い地震動によって砂粒どおしの噛み合わせがはずれて泥水のようになり、地盤としての強さを失ってしまう現象である。
この地震によって、駿河湾西岸から天竜川河口にかけての地盤が著しく隆起し、御前崎海岸では0.9mから1.2mの、佐倉海岸の隣の千浜海岸では3mの地盤の隆起がみられたという。
本件原子力発電所のある佐倉海岸の隆起は記録にはないが、御前崎、千浜が隣接地であるので、この範囲の隆起であると推測される。
駿河湾から遠州灘、熊野灘の海底では大規模な隆起と沈降が生じ、大津波が発生し、特に佐倉海岸、御前崎海岸から直線で60キロメートルから70キロメートルしかない下田の町の津波被害は激しく、流失家屋84軒、半壊30軒で、無事であったのはわずかに4軒だけであったという。
上記したように、浜岡原発の立地する東海においては、巨大地震が周期的にたて続けに発生しており、東海大地震の発生も、まもなくだとする想定も容易に肯くことができる。

3、内閣府有識者会議が2012年3月31日に公表した南海トラフ沿いの地震と津波

内閣府の有識者会議は、東日本大震災後の研究成果を反映させて、「南海トラフ」で最大級マグニチュード9の地震の発生を想定し津波高は浜岡原発の立地する御前崎市で21メートルと予測した。
現在、中部電力は浜岡原発再稼働に向かって18メートルの防波壁を構築しているが、これが浜岡原発の安全確保策にならないことは明らかになった。

4、東海大地震の規模

東海大地震は、既に発生した前記の巨大地震と同じく、単独ではなく駿河湾から四国南方沖の南海トラフが東南海地震、南海地震という別の巨大地震を誘発し、連動して発生する可能性があると言われ、その破壊力は阪神淡路大震災の60倍だとも言われている。
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、岩手県沖から茨城県沖まで、南北方向に約500キロメートル、東西方向に約200キロメートルに亘る広範囲で断層の破壊が起き、マグニチュード9.0という世界史上でも4番目という超巨大地震であり、東京電力福島第一原子力発電所を破壊し、いわゆる「原発震災」を招いたが、それとほとんど同じことが駿河湾から四国南方沖までの広範囲に亘って起き、浜岡原発も地震により制御棒が破損して動かなかったり、緊急炉心冷却装置が働かず原子炉を冷却できなくなり、大津波の押し波により原子炉停止の後の崩壊熱除去のための機器冷却系ポンプが海水の中に埋まり、逆に引き波になると、はるか沖合まで陸地が現れて、機器冷却系の取水塔が損壊したり、取水口が海面の上に出てしまい閉塞し、海水取水不能になり、冷却ができなくなり、最終的には炉心溶融(メルトダウン)に至り、放射性物質を一般環境に放出し、周辺の住民どころか、首都圏、中部圏、近畿圏に住む住民にまで放射線被曝による重篤な障害が及ぶとされている。

5、浜岡原発と活断層の存在

陸上での地震発生に伴って地表で、しばしば断層がみられる。
地下の岩石には諸種の大きさの潜在的な割れ目があると考えられているが、岩石は外力を受けると変形し、その内部には応力といわれる内力がたくわえられる。
そして、岩石の内部にこの応力に見合った変形歪みを発生させる。
応力、あるいは歪みが十分に蓄積されると、割れ目を境にして、その両側の岩盤が互いに食い違うように滑り動いて、この応力、又は歪みを解消する。
この運動が断層運動であり、滑り動いた面が断層面である。
断層面のことを単に断層ということもある。
岩石の割れ目は、一般に断裂といわれるが、その内、ずれの認められるものが断層であり、認められないものが節理である。
断層面に沿う急激な滑りは、周囲の岩石を揺り動かすことになり、地震波を発生させる。
これが地震といわれるものであり、地震とは急激な断層運動のことをさす。
大地震の後、地震断層を調べると、多くの場合、断層面は、その時、初めて滑ったのではなく、以前からそこに存在した断層面が再び滑ったものであることがわかる。
しかも、その地震時の断層運動の方向は過去の断層運動の方向と同一である。
このように、同一断層について、同じタイプの断層運動が繰り返されていることがわかるが、この断層運動の反復性を前提として、地質年代の「第四紀」以後に、すなわち、今から200万年前から同一の断層運動を繰り返している断層を活断層という。
この活断層の存在は、将来、地震が発生する重要な指標とはなるが、活断層の見られない所に地震が起こることもあり、将来の地震の予測にとって、活断層の存在は単なる一つの物差しに過ぎない。
浜岡の周囲8キロメートル以内には、既に8本以上の活断層があるとみられている。
そして、本件原子力発電所の敷地内にも断層があり、浜岡の頭文字のHをとって、H断層と呼ばれている。
このH断層は、公表されているだけでも4本あり、本件原子力発電所の真下を通過している。
東海大地震を引き起こすと言われている活断層だけが危険ではなく、その地震の際に連動して動く断層も危険性が高いと言われている。
本件原子力発電所周辺は、元来、地殻変動の激しい地域で、東海大地震では、御前崎の岬付近一帯が1mから1.5m隆起するとされている。
この大規模な地殻変動が原因となり、付近にある活断層を動かし、又、断層は地震のエネルギーが解放される場所でもあるため、断層付近は特に地震の揺れが強くなる。
この断層の上に本件原子力発電所のタービン建屋があり、さらに、海と冷却用海水のやり取りをする配管がこの断層をまたぎ配置されている。
地震で断層が少しでも動けば、付近の建物は大きく揺れて壊れ、配管が破断されることになる。
そうなると、冷却水が循環できなくなり、炉心溶融(メルトダウン)に至るものである。
このH断層には、1mないし3mの破砕帯があり、この破砕帯の存在は、断層が過去に何度も動いたことの証拠とされている。

6、浜岡原発の敷地の地盤

浜岡原発の設置されている敷地の地盤は軟弱で、上記の液状化現象による建物や原子炉機器の破壊も予測され、東海大地震にはとても耐えることができない。
浜岡原発の敷地の地盤は相良層と呼ばれる砂岩と泥岩が交互に層になった地層から形成されていて、軟岩と呼ばれている。
この軟岩は、耐震性の低い軟弱な岩盤でとても東海大地震に耐えられるものではなく、この岩盤が地震により破壊されれば浜岡原発の炉が破壊される可能性が大であり、炉心溶融(メルトダウン)にもつながることになる。

7、浜岡原発と津波

このたびの東日本大震災の際に発生した巨大津波により、東京電力福島第一原子力発電所は大被害を受けたが、浜岡原発も東海大地震による津波被害が予測される。
東海大地震で予測されている津波の高さは、海上保安庁によると、本件原子力発電所付近の御前崎港で8.1mであるが、前記のように内閣府の有識者会議は21mと予測した。
中電は、従来、浜岡原発付近を襲う津波の高さを最大8m程度と想定し、遠州灘と浜岡原発との間に高さ10mないし15mの砂丘があり、これが堤防の役目を果たし、津波被害にはあわないと述べていたが、前記のとおり、このたびの東京電力福島第一原子力発電所の津波被害を受けて高さ18m規模の防波壁を建設している。
東海大地震がもたらす津波は、海面の高さが一段高くなって押し寄せてくることから、高さ10mないし15m程度の砂丘などは安々乗り越えてしまうことが予測され、さらに、津波自体の破壊力も強く、たとえ21m以上の防波壁を構築したとしても、その防波壁など容易に破壊することが予測される。
又、津波が押し寄せると、浜岡原発の配管が破壊されることになり、浜岡原発の制御は不能になる。
さらに、取水施設から冷却用の海水を取り込めないのも炉心溶融(メルトダウン)につながる可能性が大である。
防波壁や原子炉建屋屋上に非常用発電機を設置するなどの対症療法で運転を再開することは、到底、許されないものである。

第4 私たちは、今、何をしなければならないか。

広島、長崎、焼津と続く核被害を受けた日本は、戦後、非核の日本を目指すはずであった。
しかし、日本は核兵器こそ持たなかったものの、アメリカによる核兵器の持ち込みを認め、さらにはアメリカの産軍複合体の巧みな呼びかけに応じ、核兵器の開発にも転用できる原発の設置に邁進した。
それは「核の平和利用」という美名のもとに推進されたため原発の危険性を唱える一部科学者や先進的な住民の声をかき消し、その結果、地震国で津波国でもある日本列島に54基もの原発が設置されてしまった。
そして、その原発設置は犯罪的なことに、ウランの核分裂による放射性物質を原子炉内部に閉じこめておく安全な技術がなく、さらに、放射性廃棄物の処理方法がなく莫大な量の使用ずみ核燃料が原発内に蓄積され、常に危険性を有するという状態下で推進されたものである。
それは「トイレなきマンション」の建設でもあると比喩されている。
浜岡原発の場合、現在、運転が停止されているとはいえ、6243体(1体は70本から72本の核燃料棒をたばねたもの)もの使用済み核燃料が冷却用プール等に保管されている。(使用済み核燃料には、ウラン235の核分裂で、できた死の灰とウラン238からできたプルトニウムなどが含まれている。)いったん、事故が発生し、何らかの原因で冷却材がなくなれば、この浜岡原発内に保管されている使用済み核燃料も再び発熱し、放射性物質を一般環境に発散することになる。
最早、私たちはこのような危険な浜岡原発とは共存できず、浜岡原発の永久停止、廃炉を求めるほか、生きる術がない。
私たちが1人でも多くの周囲の人々に浜岡原発の危険を伝え、浜岡原発永久停止、廃炉の声を圧倒的な世論にし、最終的には政府が脱原発の方向に転換するよう行動することが必要である。
浜岡原発の永久停止を求める訴訟もその行動の1つであるが、あくまでも勝利の鍵は民衆の世論の高まりである。
今まで、裁判官は、原発裁判において、ことごとく住民側を敗訴させ、それが「司法の犯罪」ともいわれているが、世論の高まりなくしては、良心的な裁判官を支えることはできず、原発裁判の勝訴も世論の支持なくしてありえない。
それだけ、電力会社や国の力が強大で生身の裁判官はその力を恐れているのである。
私たちは今すぐにも行動しなければならない。
その行動は「浜岡原発永久停止・廃炉」の一点でまとまることであろう。
そうすることにより、必ず浜岡原発を始め、すべての原発を日本列島よりなくすことができるであろう。

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